しかし花岡青洲は海外で行われている乳房の切除手術の知識や牛の角で胸を失った女性が問題なく元気に回復した経験などから、乳房を手術しても命に直接は関わらないと判断して、積極的に治療を行いたいと考えるようになりました。実は青洲の妹も乳がんで亡くなったと見られており、この病気に対する強い思い入れに繋がったと言われています。
花岡青洲のもとに最初の麻酔手術患者となる女性がやってきたのは、1804年のことでした。60歳の女性で、青洲が診察を行った時には左の乳房が大きく腫れており、その女性の姉も同じような症状で亡くなっていると聞かされました。女性はこのままにしていても自分が助からないことを知っており、恐怖を感じながらも手術を受けることを決意したのです。青洲は、自分の手術方法を聞くと患者は皆怖がって帰ってしまうのに、この女性は帰るどころか手術を希望したと驚きを持って記録に残しています。
この後、花岡青洲はおそらく世界で最初に患者に全身麻酔を行い、見事に乳房の腫瘍を摘出してみせたのです。女性は問題なく麻酔から目覚め、約20日ほどで故郷へ帰ることが出来ました。この手術が日本中に広まり、青洲を頼って全国から乳がんに悩む患者が集まって来るようになりました。その数は、記録に残っているだけでも当時一人の医師が手術する人数としては異例の152名にも上りました。
この成功を持って、青洲は1813年には藩の小普請医師格というエリート役職に任命されています。本来であれば城勤めとなるのですが、青洲たっての願いにより、これまで通り自宅で患者の診察や治療を続けることが許可されました。
花岡青洲がいかに患者と直接触れ合い、苦しみを治してあげたいと望んでいた誠実な医師だったかが窺えます。花岡青洲は亡くなってからも、生前の功績をたたえて位を授与されたりアメリカの国際外科学会付属の栄誉館に祀られるなど、日本医術において欠かせない人物だったと言えます。