今回は、西暦208年に現在の中国湖北省で起こった「赤壁の戦い」について、史実でみる真相を見ていきましょう。
赤壁の戦いについては、小説 三国志のクライマックスとして、「呉を大軍で攻めた曹操軍が孔明や周瑜の活躍によって孫権・劉備の連合軍に大敗した」という話をご存知の方も多いと思います。
しかし、現代に伝わる三国志の話は、三国志演義という14世紀ごろに描かれた通俗的な歴史小説で、赤壁の戦いについての記載もフィクションの部分が多いと言われています。史実としてみた時、曹操軍が長江南岸に侵攻しようとして赤壁で戦いが起こったことは確かなようですが、戦い自体の詳細は明らかではありません。
赤壁の戦いの史実
赤壁の戦いから90年ほど経って書かれた正史としての「三国志」を見てみると、
魏(曹操)の立場からまとめられた「魏志」では「曹操は赤壁に出兵したが、劉備と戦って敗れた。その時、疫病が蔓延し、兵士の多数を失った」と書いていますし、「呉志」には「周瑜と程普が劉備と共同して曹操軍と戦い大勝し、曹操は船を焼いて撤退した。その後、曹操軍は飢えと疫病で大半を失った」と、「蜀志」には「孔明が呉を動かし、周瑜・程普率いる孫権軍と劉備軍が共同して戦い、船を焼いて曹操軍に大勝した。その後、曹操軍は疫病で多くの兵を失い撤退した」と書かれています。
赤壁の戦いについて、史実的に事実と見られる内容をまとめてみると、
- 荊州北部を支配下に納めた曹操が長江南岸に侵攻しようとして劉備・孫権連合軍に敗れた
- 曹操軍は軍船を用意したが、戦いで失った(焼失した もしくは 自ら破却)
- 曹操軍は赤壁の戦いの最中もしくは直後に疫病で多くの兵を失った。
ということになりそうです。
赤壁の戦いの真相とは?
「魏志」「呉志」「呉志」はそれぞれ自国に都合よく“盛った”部分があることを勘案すると、赤壁の戦いの真相とは、
- 曹操は、荊州を支配下に納めた流れで劉備の勢力を掃討するつもりで赤壁へ出陣した
- 劉備の使者として孔明が呉に赴き、劉備と孫権は連合して曹操に敵対した
- 3〜4ヶ月の滞陣の間、局地戦で劉備軍・孫権軍は曹操軍を破った
- 戦線は膠着し、疫病が蔓延しつつあったため、曹操軍は軍船を焼いて破却し、撤退を始めた
- 疫病の蔓延により撤退は困難を極め、動員した兵の多くを失った
とみるのが妥当な気がします。
曹操軍が壊滅的な損害を受けたのは間違いなさそうですが、直接的な戦闘ではなく、疫病の蔓延による被害が甚大だったようです。赤壁の戦い自体は寒い時期に行われていますので、今でいうインフルエンザか腸チフスのような病気だったのかもしれません。
戦いの真相は今となっては推測するしかありませんが、赤壁の戦いにより曹操軍が大きなダメージを受けたことで、以降、魏呉蜀による三国鼎立時代へと移っていくことになります。